比嘉 清 トップページへ戻る  うちなあぐち賛歌   提供 南謡出版
200年前のうちなあぐち「散文」V
「花売りの縁」作年不明 高宮城親雲上作)より  (伊波普猷編、琉球戯曲集より引用)
関連ページ:「200年前の琉球語散文」
原 文 現代うちなあぐち(訳:比嘉 清) 日本語(訳:比嘉 清)

薪木取詞
 され、御尋ねめしやいる森川
(むりかわ)の子ことど、去年むちよなて迄や此の村の兼久に住まて居やべいたん。肝心も見事に持つち、働き方も至極上分な男やゝべいたすが、あゝ、無蔵さや、物縁の無いやべらぬ。物作りともふさあらぬ、又塩炊(すうた)けば雨の降り続きゆり、傍々肝とんたいとん叶らん様子やゝべいたん。
 時々、涙かけとて、語やべいたすや、なあ身も元や裕福な素立しち居たすが、たんだん不仕合続き、首里の住居ならぬ、泣く泣くも此様の人島に下りて、毎日の命つぎゆる。此の十年余る迄も、妻子の生ちが居ら、死ぢが居ら、そもそも声の音信も聞かぬ。
 あゝ、浮世に我ごと因果のものや居らぬ、むで言ちゆて泣けば、人の上むでも思はらぬ、肝のくいひきしやべいたん。さても又おれほど困窮の身になても、士のかどや見事に立てゝ、なんと差詰ても、人に無心事なつくわいすっとも言やぬ、とり仕事
(しぐとぅ)のまどまどや花の色々作てながめ、又歌もだいよで、暮ち居やべいたん。
 或時、浜宿りにわび住ひの題しち、歌に、
  あばら屋に
  月や洩る、
  雨や降らねども
  我袖濡らち。
 又、
  磯ばたの
  者やれば、
  朝夕さゞ浪の
  音ど聞きゆる。
 また、二三年先八月十五夜に、よらて月見しゆるうち、とかく故郷の妻子の事が思出しやべたら、歌に、
  つれなさ思ひ
  身に余て居れば、
  さやか照る月も
  涙に曇て。
 又、
  ながめればつめて
  思事や増しゆり、
  とてもかき雲れ
  夜半のお月。
 此様な面白い歌んでいよで、中々風流なものやゝべいたすが、頃日んしいやまあんかへが行ぢやら、ついん歩つきゆすも見やべらぬ。

(途中略、他の者の詞は組踊調=韻文かつ擬古文調のため)

 薪木取詞
 おの御二人や森川の子御由緒方の御様子。あの港前なちをる村や塩屋田港んで言やべいん。諸廻船所の事やれば、那覇泊島々浦々の商売人大粧至極色々の物 売たり買ふたり、又諸方の旅人のだんだんの芸能、中々にぎやかな所だやべる。急ぎあの村むかへ御越しめしやうち、御たんねめしやうれば、森川の御様子委細おんにゆかる筈
(ふぁじ)たやべる。

(以下、略)

薪木取詞
 さり、う尋
(たじ)にみせえる森川(むいかあ)ぬ子(し)くとぅどぅど、去年(くず)、んちゅなてぃ迄(まで)え、くぬ村ぬ兼久(かにく)んかい住でぃ居いびいたん。肝心(ちむぐくる)ん見事(みぐとぅ)に持(む)っち、働き方ん至極(しぐく)、上分(じょうぶ)な男(ゐきが)やいびいたしが、あっさ、肝ぐるしいむん、物縁(むぬゐん)ぬ無(ね)えやびらん。物作(むずく)いとぅんふさあらん、また、塩(すう、まあす)炊ちいねえ、雨(あみ)ぬ降い続(ちじ)ちゅい、傍々(かたがた)肝とぅんてえとぅん叶あらん様子(ゆうし)やいびいたん。
 まるけえてぃ、涙
(なだ)かちとぅてぃ、語やびいたしや、なあ身(どぅう)ん元(むと)お、裕福な育(すだ)ちしち居(をぅ)たしが、たんだん不幸し続ち、首里(すい)ぬ住居(しめえ)ならん、泣く泣くんくぬ様な人島(ふぃとぅじま)んかい下(う)りてぃ、毎日(めえなち)ぬ命(ぬち)ちぢゅる。くぬ十年(じゅうにん)余ゆる迄ん、妻子(とぅじっくゎ)ぬ生ちが居ら、死ぢが居ら、すむすむぬ声(くぃい)ぬ音信(うとぅじり)ん聞(ち)かん。
 あっさ、浮世
(うちゆ)に我(わん)ぐとぅ因果(いんぐゎ)ぬむぬお居らん、んでぃ言ち、泣ちいねえ、人(ちゅ)ぬ上(うぃい)んでぃん思(うま)あらん、肝ぬくいひちさびいたん。さてぃむ、また、うりふどぅ困窮(くんちゅう)ぬ身んかいなてぃん、士(さむれえ)ぬかどぅや見事に立てぃてぃ、なんとぅ差詰(さしちま)てぃん、人に無心事なっくぇえ、すっとぅん言ゃん、とい仕事(しくち)ぬまどぅまどお、花ぬ色々(いるいる)(つく)てぃながみやい、また歌んでえゆでぃ、暮ち居いびいたん。
 あるばす、浜宿
(はまやどぅ)いに、わび住えぬ題しち、歌に、
  あばら屋に
  月や洩てぃ、
  雨や降らんてぃん
  我袖濡だち。
 また、
  磯ばたぬ
  者やりば、
  朝夕さゞ浪ぬ
  音どぅ聞ちゅる。
 また、二三年先
(にさんにんさち)、八月十五夜(はちぐゎちじゅぐや)んじ、ゆらてぃ月見(ちちみ)するうち、とぅかく故郷(くちょう)ぬ妻子ぬくとぅが思出(うびいん)ぢゃさびたら、歌に、
  ちりなさ思い
  身に余てぃ居りば、
  さやか照
(てぃ)る月ん
  涙に曇
(くむ)てぃ。
 また、
  ながみりば、ちみてぃ
  思事や増しゅい、
  とぅてぃん、かち雲り
  夜半
(ゆわ)ぬう月。
 くぬゆうな面白
(うむ)さる歌んでえゆでぃ、中々風流なむんやいびいたしが、くぬ頃(ぐる)んしいや、まあんかいが行ぢゃら、ちぃん、歩っちゅしん見いやびらん。

(途中略、他ぬ者ぬ詞や組踊調=韻文うりに擬古文調ぬたみ)

 薪木取詞
 うぬう二人
(たとぅとぅくる)や森川ぬ子、ぐ由緒方(ゆいしゅがた)ぬ御様子。あぬ港前(んなとぅめえ)なちょをる村あ、塩屋田港(すやたんみゃ)んでぃ言ゃびいん。諸廻船所(しゅくぇえしんじゅ)ぬ事やりば、那覇泊(なふぁどぅまい)島々浦々ぬ商売人(しょうべえにん)大粧至極(てえそおしぐく)色々ぬ物 売たい買うたい、また諸方(すほう)ぬ旅人(たびんちゅ)ぬだんだんぬ芸能(じいぬう)、中々にじやかな所でえびる。急(いす)じあぬ村んかいう越(く)しみしょうち、うたんにみしょうりば、森川ぬ御様子委細(いせえ)うんぬかる筈(はじ)でえびる。

(以下、略)

薪木取詞
 され、お尋ねめしやいる森川の子のことこそ、去年、一昨年迄は、この村の兼久に住んで居りました。心のできたお方で、働き振りも、とても申し分ない男だったのですが、あゝ、可愛そうなことに、物造り(手に職)とは縁がなかったのです。農作には向いておらず、また、塩を炊けば雨が降り続くし、あいにく、いくら懸命になっても叶わない様子でした。
 時々、涙を流して、お話しすることには、身も元は裕福な育ちだったのだが、たんだんと不幸が続き、首里住いもできなくなり、泣く泣く、このように、他所の里に下り、毎日の命を繋いでいる。この十年余る迄、妻子が生きているのか、死んでいるのか、何の音信も聞かない。
 あゝ、浮世に、われほどに因果のものは居ないでであろうと言って泣けば、人の上(に立つ身分)とも思はれず、胸がえぐられるような気持がしました。さても、また、これほど困窮の身になっても、士としての義理は見事に立てて、どんなに、切羽詰っても、人に無心(物乞い)事など、ちっとも言わない、仕事の合い間合い間には花の色々を作って眺め、また歌なども詠み、暮らしておりました。
 ある時、「浜宿りにわび住ひ」と題して、歌に、
  あばら屋に
  月は洩り、
  雨は降らねど
  我が袖濡らし。
 また、
  磯ばたの
  者なれば、
  朝夕さゞ浪の
  音ぞ聞き。
 また、二三年前の八月十五夜で、寄り合って、月見(会を)しているときに、とかく故郷の妻子の事を思い出したのでしょうか、歌に、
  つれなさ、思い
  身に余て居れば、
  さやか照る月も
  涙に曇り。
 また、
  眺めれば、つのる
  思いは、いや増しに増し、
  むしろ、雲りたまえ
  夜半のお月。
 このような面白い歌なども詠み、中々風流なものだったのですが、この頃は、どこへ行かれたのか、もう、歩くのも見たことがありません。

(途中略、他の者の詞は組踊調=韻文かつ擬古文調のため)

 薪木取詞
 そのお二人様は森川の子、ご由緒(ある)方とお見受けいたします。あの港を臨む村は塩屋田港と申します。諸輸送船が立ち寄る港なので、那覇や泊、島々浦々(各地)の商売人らによる、とても多くの品々の売買がなされ、また諸方の旅人の大層な芸能(大道芸)これあり、中々にぎやかな所です。急いで、あの村に御越しになって、お尋ねなされば、森川のご近況の委細がお聞きになれるずです。


(以下、略)
註:@「歌もだいよで」が「歌んでよで」に、「〜居らぬ、むで」が「田港んで」と土着語音になったりする。組踊脚本は擬古文調を特徴とするが、その表記も例外ではない。だが、部分的には、前述のように、ついつい土着語音表記になることもある。
A組踊脚本が旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)になっているのに対し、現代うちなあぐち(土着語)版においては、「めしやいる」、「むちよなて」などを「みせええる」「んちゅなてぃ」などと、表音に近い表記とした。
B組踊や琉歌では、仮定や条件を表わす「〜ば」が多用されているのは、助詞の「〜に」などとともに、韻を踏む必要から和文から借用したもので、200年前の組踊ブームの時代にかなりの和語が流入し、一部が首里語化(首里語の語彙)し、役人や芸能を通して地方語(土着語)にも大きな影響を与えたのである。(上文の例:「やれば」「居れば」「あばら屋に」など)
C歌「つれなさや〜」中の「や」は、うちなあぐちでは、日本語の「〜は」(係助詞)に相当するとも考えられるが(俳句などにおける詠嘆や感動を表わす句はうちなあぐちにはないので)、日本語版では、それをそのまま訳さず、「や」のまま用いることによって、俳句の切字(詠嘆などを表わす)の効果を持たせた。但し、当時は和文傾斜時代なので、作者高宮城が切字のつもりで使った可能性も否定できない。