『文でおぼえるうちなあぐち』の「あとがき」より抜粋

あとがき

沖縄語が「独立した言語」であるかどうかを議論する事は大事である。だが名を取り実を取る事を怠れば沖縄語にとって悲惨となる。実質的にこれまで同様、「方言」のままに据え置かれる。議論は空論となり、独立言語論は幻となる。

沖縄語において、他の主要な言語のように書き言葉が統一されてないのは不幸である。しかし、今の「方言的レベル」の書き言葉が将来的に固定され、「方言意識」が助長される事になれば沖縄語にとってはもっと不幸である。沖縄社会では沖縄語が英語や日本語と同レベルの書き言葉が持てる筈がないという潜在的な偏見と相まって自明の事であるかのように第一に日本語の書き言葉を選択する。沖縄語が戦後、急速に排斥されたのは日本語に対抗できる強固な書き言葉を持てず、戦前からの排斥という外圧に沖縄側からの潜在的な偏見が同調したからでもあった。

今の大方の「沖縄語の書き言葉」は沖縄語に対する尊厳とは程遠い体裁であり、実質的には方言的且つサブ的なものに過ぎず、あらゆる分野において、公的にも継続的にも使用できる格式と体裁が伴っておらず、日本語等と対等な能力を持つ「書き言葉」になってない事は明白である。多数派はそれでもなお無頓着である。多数がそこに止まるのは自由である。同様に、そこから先に進んで行くのも自由である。そして、日本語等と同程度の強固でかつ格調高い書き言葉を求めるようとする前衛的な動きが興るのは歴史的に必然である。前衛的な活動は歴史的には常に少数派である。単一の選択肢しかない社会は土台も狭く不安定であるが多様な選択肢を受け入れる社会は広く安定できる。多様性は混乱ではなく安堵を与える。沖縄語にとって様々な可能性を持つ多様な選択肢を持つ事がどれほど心強い事だろうか。

本書は以上の考えを実践するために書いたものである。他人に求めるものがあれば自ら実践すべきだからである。