うちなあぐちをめぐる七不思議 
  (すぐ側にある檻の中の言語)
まだ、沖縄人の沖縄語に対する感覚(底流)は「標準語励行運動」時代のままなのだろうかと疑う。沖縄語復興を阻む外的力はもう無いというのに...。
●やろうと思えばできる復興運動=なぜ県民運動になりえないか?
●「方言」意識⇒必然的な限定的取組...
●「上品な部分(『文化』として市民権を得た部分)だけを残す代わりに土着語(那覇語含む地方語)を軽視

                                        吉屋松金 2004.10.15
うちなあぐち版 日本語版

■ひるまし1 うちなあぐちえ「日本語ぬ一ちぬ方言」とぅさあに、かちみゆん

うちなあぐちえ日本語ぬ一方言やあらな、「日本祖語」から「本土方言(日本語)」とぅ「琉球方言(琉球語また沖縄語)」んかい分かりてぃ来ゃるくとお言語学上ぬ定説やん。

「琉球方言」でぃぬ呼称やまあまでぃん「日本祖語」んかい(てえ)するむんどぅやる、「現日本語」んかい対するむぬおあらん。やしが、うちなあぐちぬ(日本語ぬ一部とぅしちぬ)「方言呼称」や分かてぃが居ら分からんがあら、議論らあさる議論ぬん()えらな、うっちゃん投ぎらっとおるままやん。うぬくとお、くぬ学説、まっとうばねえ()かてえ居らんがあら、強いてぃまでえ広みらんしがる都合(ちごう)()たさんでぃが考えとおら。理屈(でぃくち)(とぅう)らんあい、しぴたりたむんどぅやる。

 

ひるまし2 「ゆうちらん無ん日本人」んかい成いるたみに自なあたあ言語、うっちゃん投ぎやい日本民族んでぃゆる(かた)んかい押し込だん

民族ぬ本当(ふんとう)ぬ連帯とぅ相互尊重や相互理解から生まりてぃ来らんでえならん。相互理解んでえ(どぅう)なあたあ文化、(まむ)てぃ、相手(ええて)んかい知らち、また相手ぬ文化習てぃ(うや)まゆるとぅくるからどぅ()まりゆる。やしが、うちなあん人お、大和人(やまとぅんちゅ)から差別さららんたみに、また(祖国復帰運動等うとてぃ)ちゅま成いるたみなかい、学校うとてぃ、うやふじから()じちゃる言葉、(どぅう)くるし、うっちゃん投ぎやい、あんし、大和人んかい「とお、我ったあん、うんじゅなあたあとぅ同ぬ民族やいびいん」んでぃ、しぴたりたしい様なかい「ゆうちらん無ん(作いむんぬ)日本人」んかい成たるばすやん。

 

 

■ひるまし3 うちなあぐちぬ地域的多様性、無視し、首里ムニイ中心(なかじん)とぅる「復興運動」

うちなあぐちえ、(うさ)みらんでえならん目的ぬあてぃ、いいくる(てぃい)ちゃあんかい成たるゆすぬ言葉に(くな)びてぃ、いばうちなあんじえ、いるんな田舎言葉ぬ(ぬく)さってぃ、シマぬかじ言葉(くとぅば)ぬ変わゆるむぬなてぃ、言語学から()ちん大切(てえしち)な研究対象やん。各地んかいや幾ちがなぬ首里言葉系ぬ言葉んあしが、あいゆかん(ひる)がとおしえ那覇言葉系ぬ言葉どぅやる。あんし、生ちうちなあぐち使ゆる人んちゃあや、ふしがらんあたい地方人がる(うふ)さる。うちなあぐち復興名付きてぃ習あち歩っちょおしえ、ゆかっちゅぬ言葉んかい、うどぅんとぅんち言葉たっ加あちぇえる首里言葉(首里平民言葉んあしが)びけんぬ書物(しむち)どぅやる。

 

■ひるまし4 うちなあぐちえ変わてえならんむんでぃち、かちみやい変ゆし望まん

言葉ぬ違えみや地域差びけんやあらな、世代間じん違とおるくとお、うぬ言葉が生ちちょおるしいじやん。「大ぎい」たあが我がる「言葉ぢけえ」の交通整理役やんでぃち、若者んでえ地方語生活者ぬ言葉ぢけえとぅかぬ「いふうな物言(むに)い」、くじたい、くしさいすん。うんな「大ぎい」たあがる、ふぃいじいや標準語暮らしそおる。うったあ(ちぶる)ぬ中んじえ、うちなあぐちえ、きっさ死じょおる言葉どぅやる。生ちちょおる言葉んかい、追うてぃ行ちゆうさんばす。沖縄語学者たあや大概(てえげえ)、「死語」ぬ肝合(ちむええ)しる研究そおる。言葉あ使え次第(しでえ)変わてぃ行ちゅるむんやしが、頭ぬ中んじえ「死語」。うぬゆうな矛盾、ちゃあし、()んしゅが。復興運動や「言ちゃいはんちゃい」とぅ創作活動がる基本やる。

 

■ひるまし5 「うちなあぐちえ語彙ぬいきらさん→使用価値ぬ無えん→標準語(日本語)ぬるまし」んでぃぬ考えがるまんどおる

うちなあぐちんかいや(たとぅ)れえ「来週」「長女」(=漢語)んかい当たゆる言葉ぬ無えらんくとぅ、言い表わする(てえ)ぬいきらさぬ使ゆる(しん)ぬ無えんでぃ言るくじい物言(むに)いや大概(てえげえ)ぬ人んちゃあが聞ちんちゃるくとぅぬあぬはじやん。うったあんかいうったあが使(ちか)とおる現代日本語ぬ表現が造語力豊かな漢語(中国語)なかい圧倒的に成とおるくとぅ知らち、うちなあぐちん、くりんかい習えびちいどおんでぃ、あびたんてまん、肝合ん無えらん。元々うったあや「(なま)でぃいから、うちなあぐちぬ暮らし方」すし、くしし、あびらしいねえ、ちゃあ、うちなあぐちぬ「いち足らん所」、くじやあくじやあすぬくとぅにゆてぃ自守(どぅうまむ)とおるうっぴどぅやる。

 

■ひるまし6 うちなあぬ小学校から大学までぃうちなあぐちぬカリキュラムぬ無えらん

うちなあぐちカリキュラムや小学校から大学までぃ無えらん。いいくる沖縄文化とぅさあい市民権()いとおる(本土人んかい受き取らっとおる)エイサー、空手、組踊、琉歌んでえが運動会んでえ芸大そうなとぅくるんじ取い入りらっとおるうっぴどぅやる。やしがちかぐる成てぃ沖縄ブームんかい成いねえ、「ゆすぬ府県とお、歴史文化ぬ違やびいん」等んでぃちアイデンティティー強々(つうづう)とぅあびゆるうちなあん人。どぅく変わい様ぬ()ぎさぬ。

 

 

■ひるまし7 マスコミんじぬ取い組みえ、くまが地元やんでえ思あらんあたい、いきらさん

放送界うてぃぬうちなあぐち番組え、ラジオ放送んじ民謡番組、方言ニュースんでえぬあしが、でえじないきらさん。テレビんじえ、まるけえてぃえうちなあ芝居見したいすん。かあま早くお、午後八時〜九時ぬゴールデンアワーんかいあたしが、今あ平日(ふぃじい)ぬ週ちゅけん、昼ぬ放映。やしが芝居そうなむんや、でえじな、いきらくなてぃ、民謡んかい変わてぃちょおん。新聞うとてぃぬうちなあぐち記事えむさっとぅ無えらん。

 

 若むんよ!

 汝やうちゃがてぃ誰見(たあぬ)うが

 うちなあん人おあまんかいや居らん

 なあ(ぬず)むしん

 (たる)がきゆしんさんうかな

 筋小(すうじぐぁあ)ぬ草小やてぃん眺みやい

 とぅないぬうんちゅうあんまあんかい

 「はいさい」んでぃ(くぃい)かきてぃんだな

 うんちゅうあんまあや

 目笑(みいわれ)え小すんばあ

 やくとぅ思流(うみなが)すな


■不思議1 うちなあぐちを「日本語の一方言」としてとらえる

うちなあぐちは日本語の一方言ではなく、「日本祖語」から「本土方言(日本語)」と「琉球方言(琉球語または沖縄語)」に分かれたうちの一つであることは言語学上の定説である。

「琉球方言」なる呼称はあくまで「日本祖語」に対して言うのであって、「現日本語」に対するものではない。にもかかわらず、うちなあぐちの(日本語の一部としての)「方言呼称」は知ってか知らずか、議論らしい議論もなく放置されている現状にある。これは、この学説を正しく理解できていないか、積極的に広めない方が都合が良いとの考えからなのか、非論理的かつ卑屈な姿勢である。

■不思議2 「ただの日本人」になるために自らの言語を捨て去り日本民族という枠(檻)に押し込む

民族の本当の連帯と相互尊重は相互理解から生まれて来なければならない。相互理解とは自らの文化を守り相手に伝え、また相手の文化を学び尊ぶことから生まれる。だが、沖縄人は日本人から差別されないように、日本人と「連帯」するために、教育現場(学校)を通じて、先祖代々受け継がれてきた言語を自ら葬り去った。そして大和人に対し「さあ、これで私たちもあなたがたと同じ民族です」と自らをさし出し、「ただの(つくりものの)日本人」になった。

■不思議3 うちなあぐちの地域的多様性を無視し、地方でも首里語中心の「復興運動」

うちなあぐちは、統治目的から中央統一が進んだ他言語に比べ、狭い地域で多様性が保存され地域ごとに言葉が異なるという、言語学的にも貴重な研究対象である。各地には幾つかの首里言葉系の地方語もあるが、圧倒的に広く分布しているのは那覇言葉系の地方語である。そして今、生きたうちなあぐちを使う人口は圧倒的に地方人が多い。うちなあぐち復興の名の下に教えられているのは、かつての士族の言葉に宮廷言葉(うどぅんとぅんちの言葉)をプラスした首里言葉(首里平民言葉もあるが)が中心である。

■不思議4 うちなあぐちを固定的に捉え変化(発展)をみとめたがらない

言葉に地域差だけでなく、世代間での差も生じてくるのは生きた言語であることの証である。「長老」達が「言葉づかい」の交通整理役よろしく、若者や地方語生活者の言い回しや変化に難癖をつける。そんな「長老」らに限って普段は標準語生活。彼らの頭の中ではうちなあぐちは既に死語。生きた言語についていけないのだ。加えて沖縄語学者らの研究姿勢は「死語」前提。「言葉は使う過程で必ず変化する」という言語の常識と頭にある「死語」との矛盾をどう解消して復興していくのか。自ずと限界が見える。復興運動は会話の日常化・創作活動が基本だ。

■不思議5 「うちなあぐちは語彙が少ない→使用価値がない→標準語(日本語)が良い」論法が底流

うちなあぐちには例えば「来週」「長女」(=漢語)に対応する語がないから、表現力に乏しく使用価値がないといううちなあぐち攻撃は大概の人が聞いたことがあるだろう。彼らに彼らが使っている現代日本語の表現が造語力豊かな漢語(中国語)に圧倒的に支えられていること知ってもらい、うちなあぐちもこれに習うべきであると訴えてもあまり意味がない。元々彼らは「今更、うちなあぐちで生活する」のが嫌で、機会あるごとにうちなあぐちの「不備」を指摘することで、自らを「正当」防衛しているだけだから。

■不思議6 沖縄県内の小学校から大学に至るまでうちなあぐちのカリキュラムが存在しない

うちなあぐちのカリキュラムは小学校から大学まで存在しない。せいぜい沖縄文化として市民権を得ている(本土人に受け入れられている)エイサー、空手、組踊、琉歌等が運動会や芸大あたりで取り入れられている程度である。だが最近になって沖縄ブームが到来すると、「他府県とは歴史や文化が異なります」などとアイデンティティーを強調する沖縄人。ギャップが大き過ぎる。

■不思議7 マスコミにおける取り組みは地元とは思えないほど少ない

放送界におけるうちなあぐち番組は、ラジオ放送での民謡番組、方言ニュースなどごく限られたものである。テレビではたまに沖縄芝居が演じられる。ずっと以前は午後八時〜九時というゴールデンアワーだったが今は平日昼、週一回の放映。しかも芝居は激減し民謡に変わりつつある。新聞におけるうちなあぐち記事は皆無だ。

 若者よ!

 君はだれを仰ぐのか

 うちなあん(ちゅ)は向こうにはいない

 もう幻想を抱くのを

 頼るのをやめよう

 道ばたの雑草でも眺めよう

 となりのおじさんおばさんに

 「はいさい」と声をかけてみよう

 おじさんおばさんは

 微笑むのさ