書きことばの復興と実践を―インデックス   うちなあぐち版へ    トップページへ

はじめに
1.うちなあぐち観とうちなあぐち継承運動
2.言語危機の背景と「沖縄学」
3.「方言か言語か」―欠落する歴史的見地
4.方言説と言語説とで異なる継承の取り組み
5.戦後教育における言語と民族の否定
6.戦後・復帰後の「豊かさ」と沖縄人の思考の変化
7.琉球民族を名乗ることの意義−危険な単一民族主義に対抗
8.すぐそこにある書きことばと表記法
9.組踊などに見るうちなあぐちの伝統表記
10.話者人材は豊富―多面的活用で奥深い継承運動の構築を
11.うちなあぐち人材の多様性の持つ意義
12.「うちなあぐち継承支援条例」の必要性
13.話者世代なら誰にでもできる実践その1−普通に遣うこと
14.話者世代なら誰でもできる実践その2―散文を書く
15.求められる散文活動の強化
16.うちなあぐちの居場所―日本語との住み分け
17.うちなあぐちと標準語―マスター語
さいごに
【注釈一覧】


書きことばの復興と実践を

比嘉清

2010//28

はじめに

この拙論は、ほんの片手間にうちなあぐち散文よる言論活動を行っている一人の一般人としての視点から、うちなあぐちの継承運動に関する事柄について、持論を展開させていただくものである。

主には、うちなあぐちは、言語であるという立場から、言語の発展に占める書きことば(書記言語)の役割とその重要性を強調するとともに、沖縄人のうちなあぐちに対する思いや位置付けが書きことばの態様ひいては継承運動にどう関係しているのかについて妄言する。

 

.うちなあぐち観とうちなあぐち継承運動

うちなあぐち(琉球語)継承運動の内容は、結局は沖縄人のうちなあぐち観によって決定付けられるのではないかと考える。

現在の沖縄人のうちなあぐち観は、2006年に県議会で定められた「しまくとぅばの日」条例に反映されていると思われる。条例は、「普及の促進を図るため」には「しまくとぅばの日を設ける」(第一条)というだけにとどまった。事業内容についても、「その日を中心としてしまくとぅばの普及促進のための事業を行う」(第三条)との条文を見る限り、イベント的な取り組みの域を出ないのだろうと思われる。「しまくとぅば」の呼称自体、当たり障りのないものである。「方言」でもなく「言語」という意味でもない。あるいは地域毎にことばが異なるという多言語社会を背景にしているのだろう。条例をめぐる県内両紙の取り扱いも大きくなければ、解説もなく、教育委員会の反応もなかった。

だだ、第一条で、「本県文化の基層であり、(略)次世代へ継承していくことが重要である」と謳ったことは、歴史的に意義がある。県は、廃藩置県以降の「標準語励行運動」について、一度たりとも、釈明もしてこなかったからである。

また、うちなあぐちを方言と位置付けるか、言語と位置付けるかによっても、継承運動の内容は、大きく異なり、あるいは対立する。うちなあぐち観は、書きことばの態様に顕著に表われる。音声言語にとどまる方言は、本来、書きことばを必要としない。他方、言語は通常、歴史的に様式化された書きことばを持つ[1]。書きことばこそ、うちなあぐちの起死回生を図る鍵を握ると思われる。うちなあぐち継承運動に求められるのは、世界に通用する言論活動の手段として用いられることを想定した書きことばの復興・確立を目指すことである。

沖縄人のうちなあぐち観は、過去に根ざしている。自らの歴史をどう認識するかが民族意識を左右し、ひいては、うちなあぐち観となって表われる。だが、沖縄人は、琉球の歴史を教育方針とすることに熱心でない。われわれは、うちなあぐち観を変えることができるのだろうか。

 

.言語危機の背景と「沖縄学」

 今年2月、ユネスコは、琉球語を危機言語の対象にした。このことから二つのことが分かる。一つには、うちなあぐちは、国際的には言語として認識されているということである。二つには、沖縄人がうちなあぐちを使用しなくなる傾向にあるということを国際機関が認知したということである。

うちなあぐちは、まだ、継承する環境に恵まれている。仮に、50代後半(地域によっては40代)以上を話者とするならば、現在の沖縄の人口比からすれば、低く見積もっても、25万人を超えるだろう。さらに、「おもろさうし」、「組踊」、「琉歌」、「民謡」、「沖縄芝居」などに残された言語資料は十分にある。さらに有利なのは、うちなあぐちを日常語としている地域や人々がまだ、健在であるということである。散文による言論活動(創作や翻訳など)もある。

それにしても、沖縄人は、伊波普猷が琉球語の消滅を予言[2]して以来、「危機言語」ということばに対して、免疫ができてしまった感がある。伊波は、殆どの沖縄人がまだ、琉球語の話者であった1940年頃[3]、琉球語の消滅を予想しながらも、その救済については無策だった。琉球語への愛着と「消滅の危機」に対する冷淡さが彼の内面に同居していた。これが、その後の「沖縄学」のパターンの源流となった。沖縄人が「沖縄学の父」から受け継いだのは「生きた琉球語」ではなく、「死語想定の琉球語」であり、これに連動して、琉球語は、単なる解説の対象であって、遣う対象としては扱われなかった。実際、戦後、方言禁止運動が吹き荒れる中、外間守善編の『沖縄の言語史』にある「琉球方言文献・資料目録」を見る限り、内外の研究者によって、1947〜1970年間に発刊あるいは発表された琉球語解説書や論文は、400を超えるが、本格的なうちなあぐち散文による作品は見当たらない。「泊阿嘉」(我如古弥栄作、1911年)など著名な芝居脚本さえ資料目録にないことから、同種の類はリストアップされてない可能性もある。散文活動は「正統派」とみなされてないのか。

方言禁止運動を断行した沖縄の教育界にとって、伊波の消滅予言は拠り所であり、罪悪感に対する抗体となっていたと言えなくもない。

 そういう意味において、伊波を起点とする「沖縄学」が関与するうちなあぐちの継承運動は、矛盾を内包する。「伊波学」にとって、「消滅予定」のうちなあぐちは、もはや、解説だけで完結すべき言語であって、実践(言論活動)の対象となるべき言語ではない。したがって、「沖縄学」の感覚を持って臨む「継承運動」というのは成立しないはずである。

 

.「方言か言語か」―欠落する歴史的見地

本土においては、方言と中央語(標準語)との差は、主には訛りぐあいを指すが、日本標準語とうちなあぐちの違いは、もはや訛りのレベルでは語れない。それでも、うちなあぐちには「方言か言語か」という議論がつきまとう。「方言呼称」は、明治期に当局が使用していた「標準語励行運動」という語句の「標準語」の対語として使用され始めたものであって、県当局は、当初は琉球語を「方言」ではなく、「言語[4]」と呼称していた。伊波普猷が自編書『琉球戯曲集』で述べた「国語は民族の呼吸である」にある「国語」とは、「自国語」(同書)つまり琉球語のことであったが、後に、大勢に引きずられるかのように、「日本の方言としても、日本方言と対立する大方言」(『南島方言考』)だとし、事実上、日本語の方言だという考えに修正した。

「方言か言語か」の議論の妙な点といえば、歴史を抜きになされていることである。気付けば、そこにある土着語(琉球語)について、あくまで、言語学的感覚で推し量ろうとする。方言は、話しことばである。基本的には文字化もされず、不安定である。地理的位置などが壁となり、時と共に他方言との差が拡大することによって、通じなくなれば、言語となるという法則でもあれば、議論する手間は省けるが、現実には政治的意図や民族意識などが絡み、議論は殆ど決着を見ない。

歴史は何を語るのだろうか。琉球と日本の交流(貝貿易)は、弥生時代にも認められるが、琉球が日本であったことを意味しない。古代ヤマト政権が国土統一のために琉球に攻め込んだ史料も伝承も無い。律令制に組み込まれることもなく、中国とは冊封関係にあった。明治5年に藩体制に組み込まれるまで、琉球は、独自の外交権(英、仏、蘭と日本に先駆け独自の修好条約を結んだ)があり、一貫して独立国だったのである。そして、琉球語が一言語であることは内外に認知されていた。幕末から明治にかけて来琉または滞在したクリッフォード、ベッテルハイム、フォーカード、チェンバレン(いずれも英国人)らは、琉球語を日本語とは別の言語として研究し、著書を残した。「おもろさうし」の編纂は、国の事業としてなされ、「組踊」時代には、書きことばレベルまで到達し、琉球語による言論活動が行われていた。琉球語の存在は、歴史的事実である。

琉球語は、どのように形成されていっただろうか。本土方言と琉球方言が日本語祖語[5]から分かれたとする国語学の「定説」がある。日本祖語は、弥生式文化を持った人々が持ち込んだと考えられているが、その後、倭国大乱[6]など、何らかの事変を契機に琉球弧にも飛び火したのであろう。琉球語の形成に影響したであろうできごとを時系列で示すと次のように推測できる。

縄文時代の琉球弧に、先ず日本祖語が、次いでアマミ族[7](アマミキヨ)のことばが、次いで、何らかの形で琉球に落ちてきた人々[8]によって奈良平安時代の雅ことばが、薩摩の侵略支配によって南九州語が、さらに、近代には王府踊奉行玉城朝薫をはじめとする組踊作家らによって江戸語が持ち込まれ、今日の時空混合[9]の琉球語が形成されたのではなかろうか。

本土においては、戦乱、物流、参勤交代制などを通して、各民族語が混合していったのに対し、琉球語は、上述のように、幾度かの日本語の大波を受けながらも、混合を最小限にとどめ、独特の母音遣いや文法を維持している。最近のGm(ガンマグロブリン・マーカ)血液型遺伝[10]の研究からも沖縄人は、渡来弥生人との混血は進まず、縄文人の直系である可能性が高いと言われている。

オランダ語は、言語学の分類上は、広義のドイツ語の一方言である。だが、1600年ごろに、聖書のオランダ語(ホラント地方の方言が中心)訳を作成し、書きことばを持つに至って言語となったという。言語学的には互いに方言である西欧語の感覚からは、琉球語は、その歴史と実態からすれば、到底、「方言」としては扱われないだろう。

「方言」呼称は、沖縄人の間に「うちなあぐちの代名詞」として定着してしまった。比較論などを武器とする言語学的見地からの方言論は、説得力に勝るが、歴史だけでなく、各言語と民族の関係の実態をも無視している。方言説にしがみつかなければならない背景に、沖縄人は、「日本人であらねばならない」という政治的意図によるものか、「日本人でありたい」という願望によるものなのか、あるいは、双方が渾然一体となった意識に支配されているからか。

何より、方言説の場合、うちあぐちの実像を見失うばかりでない。継承の取り組み内容を「方言」の範囲にとどめようとするあまり、必要な対策を講ずることもできずにいる。継承運動の今日的停滞を招く一つの要因となっていないだろうか。

 

.方言説と言語説とで異なる継承の取り組み

 方言と見なそうが、言語と見なそうが、対象となる「ことば」は、同じものであるから、継承方法は何も変わらないのではないかと指摘がある。

そもそも、うちなあぐちの継承問題は、「親から子へ」という言語の本来の継承システムが崩壊しているからこそ生じている。「親から子へ」という継承システムは、日常の生活の中で無意識に行われるに対し、これに取って代わるシステムは、生活を離れた場所で、時間を限って、特定の方法で、意図的に行われることを想定しなければならない。つまり、うちなあぐちをあたかも外国語のように、教授するシステムが構築されなければならない。通常の場合、音楽教育に楽譜が必要であるように、言語教育にも様式化された書きことばが必要である。音楽における楽譜や言語における書きことばは、ことばのぶれを防ぐ軸の役割を果たす。うちなあぐち書きことばの再興を図らなければならない理由である。

書きことばは、一つの民族、または国で「中央語」しか持っておらず、地域語(下層の方言)の場合は、様式化は必要とされてこなかった。例えば、大阪弁は様式化された書きことばがなく、大阪語で書かれた文章があっても、使用目的を限定した「表音書き」以上のものではない。

うちなあぐちを方言と見なすならば、その表記法は、単に継承教育という目的のためだけの「表音書き」で十分であり、文学作品の創作レベルまでは想定されない。言語として見なす場合は、言語の顔として、あるいは衣装として、世界に通用するよそ行きの書きことばとして確立される必要がある。書きことばを衣装に例えるなら、方言説のそれは、機能的に衣装であればよく、外出(世界に見せる創作活動)に耐えられるかどうかは関係ない。

このように、うちなあぐちを方言として見なすか、言語として見なすかによって、取り組み内容の基本的枠組は決まる。その主な違いを下表にまとめてみた。

 

方言説と言語説の目標などの違い

 

方言説

言語説

文法

あればなおよし。

確固たる文法論を持つ。

創作活動

詩歌、民謡など。

詩歌、民謡、小説、論文など。

文章表記法

話しことばの「表音書き」。

完成度の高い日本語式(伝統表記《組踊式》を口語音に修正)。

書きことば

(書記言語)

完全な音韻表記では様式化(固定化)に限度がある。

音韻に配慮しつつ様式化を目指す。あらゆる分野の表現を可能とする。

現実には、上表の通りには分けられない。取り組み内容や目標は、活動家のうちなあぐち力にも左右されることが多い。公的な措置にも違いが生じるであろう。言語の場合は、公的に認知されれば、保護や復興措置を講じる対象になる可能性が高くなるが、方言として位置付けられた場合、本土各地の方言とのバランスの問題もあり、公的措置は困難となろう。

知識人と一般人とでも、うちなあぐちへの向き合い方が異なる。方言説と言語説を超えて、知識人の場合は、実践より解説に回る傾向にあり、一般人の場合は、同じく言語説と方言説に関係なく、解説より実践の方に目が向いている。普及を図る団体などにおいては、積極的にしろ、消極的にしろ、そうした役割分担のようなものができあがっている。言語を解説・研究する側と実践する側とは本来、次元が異なるものでもある。歴史的には、言語の発展に貢献してきたのは、常に言論活動(実践)であった。近代は知識と実践の融合が普通になってきているが、うちなあぐちのように、まだ健在である場合は、やはり、実践を主とし、知識を従とした方が自然である。話者数が危機的状況にある場合は、当然、言語学という「医者」が必要であるであることは、言うまでもない。

言語は、書きことばを持つべき[11]だというのが私の持論であるが、うちなあぐちの場合は、方言説派でも散文に関心を持つ人も多いかと思えば、言語説派の中にも、散文に関心を示さない人もいる。方言と言語の論理的区別ができていないというより、心情がプラスされていると考えるべきだろう。

 

.戦後教育における言語と民族の否定

戦後、米軍の収容所から戻った沖縄人は、破壊された家屋や田畑を目の当たりにし、不安の只中にあった。学校だけは、子供たちにとって、聖域にも近い安らぎの場として、胸に期待を膨らませてよいはずであった。だが、生徒たちの期待は一気に冷める。「学校では方言を遣うな」と叩き込まれた。「なぜ」という子供たちの「問い」に対しては、「方言は、汚いことば」であり、「不良[12]が遣うことば」だからというのが答えであった。言語の否定は、民族の否定でもある。地域によっては、学外で、子供たちのことば遣いを監視する婦人会も現れるようになった。

戦後における民族語排斥運動が抵抗らしい抵抗もなく進められた背景に、沖縄を統治していたアメリカ軍による日本からの切り離し政策があったことも述べておかなければなるまい。当時の沖縄の教育界は、それが沖縄の永続支配に繋がることを恐れた。戦後の「方言禁止」運動の理由の一つであった。皇民化政策の一環であった戦前の民族語排斥策の理由[13]と大きく異なる点である。皇民化という抽象的な政策では成しえなかった民族語撲滅は、反米闘争としての性格を帯びた復帰運動という民族の死活問題[14]を絡めることによって、大きく「前進」したと言える。

 

.戦後・復帰後の「豊かさ」と沖縄人の思考の変化

 米軍統治に対する抵抗運動としての日本復帰運動を組織する政治力を備えていた沖縄人は、復帰以降は急速に結束力を失った。県民の価値観が多様化したのだという論調もあるが、琉球人の思考は、昔から多様[15]だった。復帰運動の中期までは復帰に反対[16]する勢力もいた。むしろ、日本復帰という価値観で一致していた勢力が分解し、本来の多様性に戻ったのである。

 復帰運動に傾注した結果、われわれは、民族語の継承システムを失った。失ったのはそれだけではない。終戦直後の一時期は、沖縄の農民は、自主的に復興に着手した。焼け野から美しい田園風景を取り戻しつつあった。土手や里道の雑草は、きれいに刈り取られ、山羊や馬などの餌になった。残飯は豚に与えられ、排泄物は、畑の肥料となった。ゴミ収集車の来ないエコ社会でもあった。

田畑を基地として米軍に奪われた農民は、言うまでもなく、自力復興の努力をしていた農民の多くも、現金収入に魅せられ基地建設などの軍作業に動員されていった。貨幣がB円(軍票)からドルへ切り替えられた1958年以降は、アメリカ資本も投入され、米国から安い物資が流入した。自給自足していた沖縄人が米国産の穀物などを買って生活するというスタイルに変えられた。沖縄社会は、僅かの間に激変し、王朝時代から続いた自立経済は崩壊した。戦前の貧しさに比べると「豊か」になった。だが、沖縄県は、ずっと、最貧県であり、失業率は8%前後で全国一高い。「豊か」になった沖縄人が価値観を変えてないと言えるだろうか。

うちなあぐちの継承については、もはや切実な課題とはなりえてないようにも思える。だが、それを「豊かさ」故と判断するのは片手落ちである。沖縄人は、学校などで植えつけられたうちなあぐちに対する悪いイメージを持ち続けている。特に、「うちなあぐちは、書きことばに向かない」というイメージは、一般人から知識人まで「常識化」している。それを払拭することも継承運動の一環として考えるべきだろう。前述したのように、書きことばは、言語の顔であり衣装である。もし、現在の継承運動を以ってさえも、うちなあぐちによそ行きの書きことばをまとわせることができないのなら、多くの沖縄人をして、継承活動からますます、遠ざけることになるかもしれない。話者世代のうちなあぐちに対する愛着心が今日まで持続しているのは、うちなあぐちがどんな姿をしていようと、愛するという肉親愛に近いものであるからだ。もっとも、その愛着心が必ずしも継承運動や書きことばの確立に結びつくとはかぎらないことは今日の状況からも分かる。

いずれにせよ、継承に関わってない物言わぬ圧倒的多数派が現在の取り組み内容を消極的に容認しているのか、それとも、無視しているのかを知る必要がある。

アンケートの実施は、実状を把握する上で有効であるが、回答者がうちなあぐちの何をイメージし、または、イメージさせられているかによって、調査結果は、大きく変わってくる。そのため、実施者が、自身のうちなあぐちに対する位置付けや書きことばの態様などを示さなければ、調査結果は、あまり意味をなさないと考えるべきである。

 

7.琉球民族を名乗ることの意義−危険な単一民族主義に対抗

 うちなあぐちを言語と主張するなら、沖縄人は、一の民族であることを主張するに等しい。しまくとぅば県条例をめぐる地元紙の「声の欄」に、しまくとぅばにこだわることを「狭い民族主義的」であり、戦争に繋がりかねないという旨の投書があった。

自己の民族を誇れる民族は、他民族をも敬う文化を持つ。日本は、政府要人の失言[17]に認められるように、単一民族志向である。その裏返しは、他民族を敬う文化のない差別社会であり、その危険性は、有事などの際に国民統制を容易にすることである。

そもそも、日本も古代は、弥生式文化と共に朝鮮系の言語を持ち込んできた人々(帰化人組織)を祖先とするヤマト政権が統一国家をつくるまでは、北方系の蝦夷や南方系のオーストロネシア語族などからなる多民族列島であったという説[18]がある。

沖縄人が琉球民族と名乗ることは、むしろ、単一民族論が内包する危険性を抑制する。沖縄戦で多数の犠牲者を出した沖縄人は、民族を名乗ってしかるべきだ。民族同士の紛争が起きるかどうかは、民族が単調な価値観を持つのか、多様な価値観(対処能力の豊富さ)を持つかによる。民族意識そのものが戦争を引き起こすのではない。

ただ、個々人の民族を決定するのは学説でも行政組織でもない。決定権は個人にある。本人の意思に反して、誰も民族を押し付けることはできない。民族が自己申告で決定されるならば、客観的基準はなくてよいのかという疑問が生じるかもしれない。終戦直後までは、衣食住はじめ宗教、芸能に至るまで沖縄は本土と異質であった。『青い目がみた「大琉球」』(ニライ社)にある照屋善彦氏の文を引用する。

「琉球を訪れた欧米人は、(略)島の人々の特色ある文化に興味を覚え、(略)この王国の風土と文化がその隣国の中国・朝鮮・日本本土、さらに東南アジアとは異なる独特のものであることを知り、数多くの記録を残したのである」

ただ、琉球民族を名乗ることは、日本人であることを否定するものでない。「日本人」という呼称は、本来、国家人(国籍人)の呼称にすぎないが、単一民族志向も手伝って民族と混同されている。もし、日本の古代の多民族が独自の言語や文化を維持し続けていたなら、例えば、「蝦夷系日本人」など呼称される人々が今もいたであろう。

琉球の歴史を消去した三大事変について追記しておく。1609年の薩摩による侵略の際は、王府の財宝や公文書が持ち去られ、古琉球の姿が闇の彼方に葬られた[19]。また、1879年の廃藩置県の際にも殆どの公文書が東京などに持ち去られたが、多くは関東大震災で消失したという。さらに、1945年の沖縄戦の際も多くの史料が焼失した。

 

.すぐそこにある書きことばと表記法

文化人類学者の川田順造氏は、「ことばをあまり必要としない身近な者同士の間では、ことばは廃れる。ことばは、よそ行きとして発達する[20]」という旨のことを述べている。書きことばは、不特定多数の人に伝えるもので、究極のよそ行きことばだといえる。よそ行きのことばは、話しことばを視覚化するものであるから、視覚の都合に合わせて、論理的(文法的)、かつ体裁よく様式化された言語である。

沖縄には、うちなあぐちによる散文ひいては書きことばの再興および発展に対して、根強い抵抗がある。今、あたかも、うちなあぐちの「書きことば」として流行っているのは、単に「話しことばの表音書き」でしかない。既述のように、大方の沖縄人のうちなあぐち観の反映なのだろう。

司馬遼太郎は、徳川宗資(国語学者)との対談で、「天才が現れないと、土語から散文化することは無理です」(『日本語の本質/司馬遼太郎対話選集2』)と述べている。書きことばについては、「話しことばの単なる表音書き」以上の工夫がなされるべきであると解釈したい。後世の人は、天才らが作り上げた書きことばを模倣するだけで済む。日本語は、長い歴史を通して、幾多の天才作者らを経て、現在の様式に確立されてきた。琉球語も組踊作家らが日本の歌舞伎や浄瑠璃の作家らを模倣して組踊台本を書き、散文の体裁まで辿り着いている。

日本による琉球国併合後、抑圧の対象となった琉球語は、奇妙な処遇を受けることになった。発見された言語であるかのように扱われ、「どうも日本語の方言のようだ」ということにされた。表記法も組踊以来の伝統表記は、無かったことにされリセットされた。

『沖縄對話』(明治13年、県学務課)における表記法は、日本語版においては、長音には母音を重ねるという伝統表記であるのに対し、琉球語版においては、外来語同様、長音に棒引き記号が使われるなど簡易な表音表記となっている。その影響なのか、民謡や芝居脚本などにおいては、漢字混じりひらがなに棒引き記号(長音)が混在する表記法が主流となり、現在に至っている。長音に棒線記号を用いる表記法の欠点は、本来、二つの意味からなる語を一音節に結合[21]させてしまうことによって、語の構成を示せなくなることである。棒引き記号を使用しない日本語式表記法だと、音声上は音節結合が行われても文字上は音節の結合が行われないから、語の構成を説明しやすい。日本語で棒引き記号の使用が許されているのは、語構成を分解する必要のない外来語(カタカナ表記)や臨時伸ばし音[22]などの場合に限られる。語の分解を想定してない本土各地の方言においても棒引き記号の使用が確認される。外に出す必要のない非公式な個人メールなどについては、当然、限りなく自由である。公式の表記法をよそ行きの衣装にたとえるならば、個人メール類の表記は、普段着の類である。

うちなあぐちを言語として認識する以上、その書きことばについては、よそ行きの正装にする必要がある。おもろさうしの編纂者や組踊作家らにより琉球語に移植された日本語式表記法は、琉球語の伝統表記となるはずだった。今日においては、日本語が明治時代に言文一致に修正したように、うちなあぐちにおいても、後述するように、これらに準じる修正がなされる必要があることは当然である。

うちなあぐちを散文化するのに必要なのは天才ではなく、勇気だけである。天才の仕事は、完了しており、われわれはこれに修正を加え、継承また模倣するだけである。だから、うちなあぐち表記法は、誰の手にも届くところにある。

 

.組踊などに見るうちなあぐちの伝統表記

琉球語と呼称されていた時代の書きことばを次のように、修正すれば、口語うちなあぐちの書きことば表記法が得られる。

@文語的表記(日本語音式)を口語表記(琉球語音式)に直す。例、文語「ほこらしやが」→口語「ふくらしゃどぅが」。五母音(a,i,u,e,o)のうち、ueiに、ouに変換することによって、口語になる。(chu)→chi)に、き(ki)→ち(chi)、ぎ(gi)→じ(ji)および拗音の場合など細かく言えばさにあるがここでは略する。ただ、「我(わん)や[23]」などにおける係助詞「や」の文語遣いは許される。

A旧仮名遣いを新仮名遣いに直す。例、「けふ」は「ちゅう」に、「たうたう」は「とうとう」に。ただし、「くゎ(くぁ)」、「ぐぁ(ぐゎ)」などの旧仮名遣は、発音が残っているので残す。

日本語における言文一致とは、「口語で文を書くこと」なのであるが、うちなあぐちにおいては、五母音式表記(日本語音式)を口語音式(琉球語音)で表記することである。ただ、現代うちなあぐちにおいては、最初から、口語音で表記すればよいことであるから、その表記法は、単に現代日本語の表記法に準ずればよいということになる。

琉歌などの韻文は、散文の手本となり得ない。琉歌をいくら、たしなんでもうちなあぐち散文化には、殆ど貢献していない。同じく、組踊脚本も韻文であると思い込まれてきたので、散文表記の参考にはないと信じられてきた。確かに組踊台本は、主には韻文であるが、実は散文調のセリフもある。

伊波普猷は、組踊の韻文形式が変調する場合について、「切なる情を表したり、驚いたりして発する詞は、破調にしてある。(略)感情が高まって来ると、忽ち変じて、七五調又は五七調になるのである」(『琉球戯曲集』)と述べ、韻が崩れても、なお韻文形式であるとする。他方、散文調のセリフについては、「冗漫な文句」と酷評する。「『手水の縁』や無名氏の『忠孝婦人』等見るに(略)、多くは、技芸の点は全く顧みずして、徒らに冗漫な文句を長々と連ねたものばかりで」だとする(『琉球戯曲集』)。引用文にある「手水の縁」(平敷屋朝敏)は、「花売りの縁」(高宮城親雲上)の間違いである。冗漫な句(散文)が多い例として伊波が挙げた「手水の縁」には、散文句はなく、「花売りの縁」の方にある。伊波の単純な勘違いだと思われる。その「冗漫な句」というのは、「花売りの縁」においては、薪採の長セリフ、また「忠孝婦人(異本、大川敵討)」(久手堅親雲上)においては、泊の長セリフのことを指していることは間違いない。いずれも口語[24]である。伊波は、組踊に対する自らの美学にそぐわない箇所は、気に入らないようだ。だが、散文に関心のある後世のわれわれにとって、それらの「冗漫な文句」こそ、散文の参考になる宝物なのである。

旧仮名遣いはともかく、実音とかけ離れた五母音で表記する表記法から、実は、組踊時代頃までは現代うちなあぐちとは異なっていたのではないかと勘違する人もいる。200年程度で言語は、大きく変わるものではない。余談だが、明治15年生まれの祖父と私の会話は成立していた。祖父もまた彼の祖父と会話したであろう。言語は連続しているのだ。

旧薩摩においても、百姓が三母音なのに対し、士族は、江戸語に近づけようと五母音で話す傾向にあったという(司馬良太郎対話選集2『日本語の本質』)。五母音表記は、薩摩が侵略する以前に編纂された「おもろさうし」以来の伝統であることから、薩摩士族の影響ではないが、何らかの共通項があるかもしれない。

私の主張する伝統的表記法とその他表記を下表で大雑把に比較してみた。

主な表記法の対比表

 

伝統表記(日本語式)

表音表的簡易表記(長音に棒線使用等)

文法説明

容易(語句の分離がしやすい表記)。

容易でない(語と語の結合音を棒線記号で表記したりするため)。

発音対応

日本語同様に可

成立

多くの作者が関与し歴史的に形成。

話しことばの「表音的簡易書き」。

伝統的か

伝統的を踏襲。

伝統的でない。

例文

あんまあ、たむのお、きぶとおんどお。

あんまー、たむのー、きぶとーんどー。

あんまぁ、たむのぉ、きぶとぉんどぉ。

注:長音に小文字を使うと、拗音+長音の場合、小文字が連続する。例、「ちゃぁぐゎぁ(茶小)」。

 

10.話者人材は豊富―多面的活用で奥深い継承運動の構築を

中国に、「用いれば即ち虎となり、用いざれば即ち鼠となる」という故事がある。普通の人でも登用すれば虎のような実力を発揮することができるが、登用しなければ、優秀な人材もただの鼠にしかならないという意味である。

話者世代の多くは、継承の取り組み対しては冷めているかのように見えるが、いざとなれば、うちなあぐちの知識も豊富であり、しっかりした意見を持つ「隠り武士[25]」的存在だ。彼らの知識や意見を継承運動にどう生かしていけばよいだろうか。

一概に話者といっても、うちなあぐちを日常語としているグループと機会があれば話す程度のグループとに分かれる。後者は、さらに、頻繁に話すグループとまれにしか話さないグループに分かれる。日常語にしているといっても、身内と地域人との会話に限られている場合が多いので、実態は把握しにくい。私の身内(うるま市与那城)の殆どは、うちなあぐちが日常語であるが他所に対しては、日本語に切り替わる。身内以外では、糸満市字宇江城の人々は、私が接した限りでは日常語派である。やはり、外部の者と接する場合は、日本語に切り替わる。身近な話者数から推し量れば、県内にいる日常語派は、どれだけいるのであろうか。普段は、日本語を日常語とし、うちなあぐちは、苦手だという大半の団塊世代は、話し相手が、同郷か同窓の者である場合、突然、水を得た魚のように、うちなあぐちを喋ることがある。

沖縄には、「耳ぬ肥えとおん」という慣用句がある。歌や踊りが盛んな沖縄では、年配世代は、長年、歌三味線を聴き慣れており、プロを評価する。プロもこうした年配世代の「肥えた耳」を恐れる。うちなあぐちに関しては、話者世代は、耳も目も肥えている。彼らの耳は音声語を聴き、目は書記語を見る。単に、話者であるということに加え、継承運動に対して自分なりの意見を持つ。だが、彼らの殆どが継承運動の蚊帳の外に置かれている。地元紙におけるうちなあぐち関連記事は、ただでさえ、少ない上に、うちなあぐち関係者がマスコミに露出するのは、決まって一部の特別な人たちだけである。うちなあぐちを話せるのは彼らだけであるかのような印象を与えている。まさに、群盲に象の一部を撫でさせているに等しい。マイナーな言語というのは、このような経緯で単調化するものなのだろうか。アイヌ語も本来多様な方言群から成り立っていたとのことであるが、現在は、一面的なものになっているという。

様々なタイプの話者を活用することによって、多面的で、奥深いうちなあぐちに迫ることができるはずである。

 

11.うちなあぐち人材の多様性の持つ意義

トウモロコシを主食とする南米の原住民は、主たる品種が将来、病気などで絶滅するかもしれないことに備えて、多種類のトウモロコシの品種を保存し続けているという。民族が永らく生存していくための生活の知恵であり保証である。太平洋戦争で敗戦した日本人が直ぐに立ち直れたのは、国民が軍国主義以外の価値観[26]をも持ち続けていたからである。もし、日本人が軍国主義という価値観だけ持っていたなら、反米英思想が代々受け継がれ、今なお、対米英ゲリラ戦に明け暮れていたであろう。国土は荒廃し、経済大国にはなりえなかった。

中国との冊封関係、薩摩の侵略、明治政府による併合、沖縄戦、敗戦後の米軍統治と、歴史に翻弄されながらも、琉球民族が人口を減らすことなく、現代まで、生存して来られたのは、様々な事変に対処できる多様な価値観を持っていたからではなかろうか。画一化された価値観は、生き延びる選択肢に不自由し、破滅の危険が待ち受けているのだ。自然も芸術もあらゆる人工物も多様であるからこそ、安定感があり、感受性も豊かになる。

沖縄では、庶民語は集落ごとに異なる。うちなあぐちに携わる人材は、集落の数にほぼ比例していると考えてよい。最近では、各地で独自の「しまくとぅば大会[27]」などが催されるようになってきた。公民館などで地元のことばを講義しているところもある。復帰後、地域語を編纂した書物[28]も多く発刊され、地域に伝わる民話の編纂[29]もなされている。人材は、単に地域という面に広がっているだけでない。芝居、琉歌、民謡、散文、語源研究、地名研究といったジャンルにも広がり多角的になってきている。

特定に偏らず、多様な人材を活用することは、また、人材育成にも繋がる。人材の拡大は、品揃えの豊富なデパートに買い物客が集まるように、継承運動に加わる人々が増え、質的な発展の契機ともなりえるはずである。

 

12.「うちなあぐち継承支援条例」の必要性

今年6月、私は浦添市在住の上地氏から一通のはがきを頂戴した。

「実は私、二十数年前に聖書を宮古口になおそうと思い、創世記三章まで進みましたがあまりの難しさに中断してしまいました。(略)昔を思い出して又始めようかと思ったりしていますが、もう八十を超えましたので、どうしようかとなやんでいます」。

また、那覇市の赤嶺氏(当時80代)からも、「若い頃、泊高橋のことばを編纂しようと取り組んだこともあった」との電話を頂戴したことがある。沖縄市の伊礼氏(当時50代前半)は、定年後に出身地である与那城のことばを編纂する計画を持っていたが、志半ばで倒れた。豊見城市のC氏(60代前半)は、フランス語小説をうちなあぐちに翻訳していたが、発行には至らなかった。思えば、幾多の人々が、故郷のことばに思いを寄せながら、挫折していったことだろうか。

会話を実践するサークルなども散見されるが、公的支援もないことから、持続性に難がある。できれば出版に漕ぎ着けたい散文活動についても同様である。このように、うちなあぐちに携わる人材は、地方語の編纂に関わる者から、散文活動している者迄、案外に多いのであるが、社会的露出度は、彼らの活動資金に比例して、ゼロに近い。昨今は、インターネットの普及によって、誰でもホームページやブログを開設して、独自の活動ができるようになっており、うちなあぐち話者世代にも、徐々に広がり始めている。市井の人々の活動については、マスコミがもっと取り上げるべきだとの声もあるが、逆に、マスコミを当てにしないからこそ、ホームページやブログの活用が活発になる素地がある。

うちなあぐちの継承に熱心な市井の人々が、芽を出し切れない背景には、うちなあぐちの市民権が「しまくとぅばの日」条例に謳われた程度だからである。継承を目指す個人や団体は、結束して、県や県議会に対して、うちなあぐちの継承を支援する条例の制定を働きかける必要がある。当然ながら、支援は、意見や活動方法などの違いに関係なく、公平に行われるべきである。

うちなあぐちの継承に携わる団体や個人が、意見の違いを乗り越え、結束すれば、県や県議会を動かすことは難しいことではない。

 

13.話者世代なら誰にでもできる実践その1−普通に遣うこと

うちなあぐちの継承の取り組みについては、特別な人々だけがやるものだと思い込んでいる人たちが多い。確かに、辞書の編纂や本の出版などは、相応の労力を要するので、生活と両立させるのは困難である。サークルを主宰したり、講義活動をしたりするのも、準備に要する時間などを考えれば、やはり、それなりに労力のいる仕事であり、できる人は限られる。

よく、「実践にまさる継承はなし」といわれる。言語の継承運動でいう実践とは、ことばを「遣う」ことであり、言論活動全般を指す。うちなあぐちを日常語としている人でも、子や孫などに対する場合に日本語に切り替えるのであれば、継承を怠っているように思えなくもない。だが、子や孫たちは、親世代同士が遣っているうちなあぐちを、実はよく聞いている。それに、意識的にせよ、無意識のうちにせ、子や孫に対して、時折、うちなあぐちを遣っていることも多い。結果的に、うちなあぐちの耳学問になっている。実際に、「話せないが聞くことはできる」という世代が存在することは、周知の通りである。「聞くことができる」ということと、「聞くこともできない」ということとは、雲泥の差がある、「聞くことはできる」人々は、話す習慣をつけるだけで、話者グループに変身できる。聞かすだけの消極的な実践であっても、その意義は大きい。この世代が話せないのは、親世代から「話してはならない」ことを雰囲気的(暗示的)に感じとっているからである。

 

14.話者世代なら誰でもできる実践その2―散文を書く

うちなあぐちを日常語とせず、普段、話す機会が少ない人にも活躍の場がある。うちなあぐちで「文章を書く」ことである。話すことも大事ではあるが、書くことも大事である。集中して言語と向き合うことができる。会話だけでは、空気中に消え失せることばを紙上、あるいは、パソコンデータとして留め置くことができる。散文に慣れたら、うちなあぐち力が飛躍的に高まることを学習するであろう。

だが、沖縄社会では、うちなあぐち散文は、いまだに、市民権が得られてない。地元紙における読者の声の欄でも、引用程度が認められているだけである。多くの沖縄人は、うちなあぐちで文章を書くのは不可能だと言うが、表記をどうするかということで悩んでいることが多い。

歴史の断絶というは、こうも、無駄な労を後世に課するものなのか。

漢字を知らないと中国語文は書けないとか、スペルを知らないと英語文は書けないというのなら分かる。だが、うちなあぐちは、日本語同様[30]、基本的には、音節単位で成る文字[31](かな)を使用していることから、五十音で表せる音なら聞き書きすることができる。

また、音声と書記との乖離が少ないうちなあぐちや日本語においては、表記が多少ぶれても書記として成立する。たとえば、「行(い)く」は「ゆく」、また「論じる」は「論ずる」でも許される。多くの方言と新旧のことば遣いが混在しているうちなあぐちにとって、表記のぶれを許すかな表記は有利である。「しみそおれ」を「しんそおれ」、また、「降やびいん」を「降いびいん」、「成ゆん」を「成いん」と表記しても「綴り」が間違っているなどと言われなくて済む。

表音文字であるローマ字を使用する西欧語でさえ、スペルは漢字と同じように「形」となってしまっている。仮に、音韻・音声学の立場から英文や中国語文を伝統的スペルや漢字でなく、発音記号で書くよう提唱された場合、はたして、どれだけの人々が受け入れるであろうか。書きことばというものは、もはや視覚の都合の下にある言語なのだ。視覚の都合というのは美学を含む。言語は文化であり、様式美である。継承とは模倣であり選択である。美しいものが残り、美しくないものが淘汰される。書きことばは、目で見る言語である以上、美的であることは余計なことではない。

凡人であることを強く自覚していた私は、表記法は、伝統表記の修正か、もしくは日本語式に倣うことを基本にするとスタート時点で決めていたことから、表記法に労力をかける手間を省くことができた。「送り仮名」、「長音には母音を連ねる」、「句読点」、「括弧使い」等は日本語式に準じ、独自ルールとして、@無理な当て字をしない、A「清らさん(美らさん)」などのように、日本語と異音同意語の当て字については、妥当な新説が出るまでの暫定的とする、B語形保存表記[32]をするなどである。ただし、「独自ルール」は常にぶれているが悩まない。

また、書きことばの実践について、間違っていたら迷惑だし、恥ずかしいという考える人もいる。この考え方からは何も生まれない。最初から完成されたものはなく、今も完成されたものなどない。進歩に必要なのは神経質ではなく大胆さだと人は言う。これ以上のコメントは要らない。

さて、せっかくの作文も発表する手段がなければ、継承としての意義が薄れるが、特別に「継承」を意識する必要はない。継続すれば、作文が楽しみに変わる。インターネットを利用できる環境にある人は、ブログを立ち上げるなどし、できない人は、文集を公募しているホームページなどに投稿する方法もある。インターネットを利用できない人は、自分の感性に合う文集サークルなどに投稿する方法もある。どんな小さな実践でも積み重ねていけば、継承運動の質的転換に貢献できるはずだ。

 

15.求められる散文活動の強化

うちなあぐち継承の取り組みとして、「しまくとぅばを発表する大会」などは、比較的活発に行われているが、散文活動を奨励する取り組みは、殆ど目にしない。

歴史を振り返ってみると、書きことばの存在が言語を不朽・普遍のものにしてきたことが分かる。文字を解読することによって、後世の人々は、古の人々からメッセージを受け取ることができる。八重山の各島各村には、代々、数十種の古謡を暗誦する音取役(ねどりやく)がいたが、近代、彼らは、生活に追われ、暗誦すべき数の古謡を暗誦できず、喜舎場永cが集録を始めた昭和初期には、かなりの数の古謡が失われていたという(『八重山古謡上・下』喜舎場永c著)。口承には、限界があり、音韻も不朽・不変ではありえない。代々の口承を重ねて行く中で、語彙が意味不明となることもあるという。死語化に加え、音韻の不安定が原因だろう。

言語の普遍的な目的は、何(意味)を伝えるかであって、文字も音声も手段にすぎない。だから、古代人は、意味を持つ文字(象形文字)を発明した。音文字で綴られたスペルも時代と共に音韻とスペルは乖離し、スペル自体が「形を表わす」ようになった。今日、スペルの修正が行われないのは、音声より書きことばとしての安定性を選択しているからである。音韻は移ろい行くものであり、言語間の差異を表わす場合や厳密な発音をしないと相手に通じないような場面には、有効であるが、歴史という長いスパンから見た場合、絶対的に固執しなければならないというものでもない。

英語においては、ジェフリー・チョーサーの「カンタベリー物語」が散文の走りだといわれ、日本語においては、太安万侶の「古事記」、紫式部の「源氏物語」を経て、明治の文豪らが現代日本語の基礎を築き、今の形になったのは戦後であるといわれる。琉球語散文の走りである組踊台本が書かれたのは18世紀ごろであるが、日本語や英語などのメジャーな言語を別とすれば、諸外国語における書きことばの形成時期に比べ、それほど遅れをとっているわけではない。言語の確立と継承には、書きことばの果たす役割がいかに重要であるかは歴史が証明している。

今日のうちなあぐち継承運動の中でも、肝腎な散文による言論活動は、もっとも手薄な分野となっている。うちなあぐち散文活動の再興は、もはや、奨励活動に依存せざるをえないだろうか。

 うちなあぐちによる懸賞小説などを定期的に公募するための基金などを設立し、うちなあぐち散文活動を奨励することが望まれる。

 

16.うちなあぐちの居場所―日本語との住み分け

うちなあぐちによる散文活動は、なぜ、見向きもされず、不毛状態にあるのだろうか。

その主な理由として、うちなあぐちは、@繰り返し述べるが、書きことばに向かない言語と思い込まれていること。Aそのことが、書きことばの表記を簡易な表音的表記法にとどめたこと、Bそして、日本語より、表現力が劣ると思い込まれていることにある。

@およびAについては、前項までに論述した通りである。これらの背景には、方言説派の影響もあるだろう。また、沖縄人の心の深層にあるうちなあぐちに対するマイナスイメージを引きずっているということもあるだろう。

うちなあぐちは、日本語より表現力が劣るだろうか。日本語が豊かに見えるのは、漢語を多用しているからである。日本語から漢語を取り除けば、たちまち、もどかしい言語となる。琉球語も日本や他の漢字文化圏と同様、江戸時代から漢語を借用してきた経緯があるが、同時に、漢語に依存しなくてもよい語句使いをも発達させている。たとえば、動詞から派生する名詞などがそうである。動詞「かやすん(運ぶ)」は、名詞「かやあさあ(運搬人、運搬車など)」や、同じく名詞「かやあすし(運搬する手段)」などを作る。また、心や情を表現する「肝語」は、『沖縄辞典』(国立国語研究所)に66語も載り、「肝ん肝ならん」などの慣用句も、数え方にもよるが概ね40句程度ある。日本語で衰えた係り結び[33]も健在である。「しこういむこうい」、「ゆんたくひんたく」などの「重ね語」も健在だ。日本語並に漢語を用いれば、うちなあぐちの表現力は、日本語以上ではあっても劣るはずがない。

ただし、漢語は日本語音でなく、琉球語音[34]で読まれなければ、日本語との混合語のようになってしまう。現に、話者世代から、日本語読みする漢語混じりのうちなあぐちに対して、「日本語のようだ」と思われている。

うちなあぐちに対する食わず嫌い的な思い込みは、自ら実践して払拭する方法が最良である。実践に躊躇している人は、他人の実践書に触れてみるべきである。そして、継承者は、自ら進んでうちなあぐち散文を書き示すべきである。

うちなあぐちを日常語としている人々も含め、書記言語については、生活のすみずみまで日本語である。生活レベル(商用文、卒業論文、入社試験、行事案内など)においては、今のところ、うちなあぐち書記語が入り込む隙がない。だが、文化・芸能の分野では、うちなあぐち書記語を用いても、生活に支障を来たすこともない。とりわけ、随筆や小説など散文活動の分野においては、書き手の自由世界である。最近は無名の主婦でも、「携帯小説」を書く時代である。前述したように、ホームページやブログなら誰でも散文活動ができる。うちなあぐち書きことばが定着すれば、将来は、生活レベルに入り込むことも不可能ではないはずである。

われわれは、日本語で文章を書くとき、日本語の継承を意識しているわけではない。諸外国語にも同じことが言える。うちなあぐち散文の実践も「継承運動」という意識から解放され、「遊び」となったとき、究極の継承活動となる。

 

17.うちなあぐちと標準語―マスター語

 国民を統制する必要から国家には、公用語や標準語が必要である。では、国家を持たない民族語の場合は、標準語を必要としないだろうか。文学や論文などの類は、強いて標準語である必要はない。だが、民族語の安定的な継承を図るための言語教育を行う必要がある場合、文法および書きことばをある程度、標準化しなければ混乱する。さらなる不具合がある。公立学校には、方言の異なる複数の集落から生徒が通うのであるが、一つのクラスで複数の方言を教授しなければならない破目になる。

うちなあぐちに「標準語」が必要かどうかについて、議論ずることは、うちなあぐち観を、もう一歩、整理することにもなり、無駄なことではない。

諸外国における標準語の決まり方は、様々である。ドイツ語の標準語は、ルターのドイツ語訳聖書が基礎になったといわれ、フランス語は、パリの一地方の方言がモデルとなったという。イタリアは、ローマ帝国の本拠地なのだから、その標準語は、ラテン語をモデルにしてもよさそうだが、トスカーナ地方のフィレンツェの方言がモデルになったという。中国でも16世ごろまでは、南京官話(南京の方言)が公用語であったが、清が北京を首都とした後は、支配民族の満州語ではなく、北京官話を公用語にした。韓国では、国立国学院によって標準語が定められている。日本語の標準語は、江戸時代後期までは実質的に京都弁だったという説がある。明治以降は、国家的営為として、東京弁をモデルとした標準語が形成された。戦後は、国による標準語政策は、行われてないが、実質的には標準語が定着している。

 仮に、うちなあぐちに標準語が必要と認められた場合、諸外国語において、為政者の都合などで決めていった場合と異なり、@言語教育という目的に限定したものにし、かつ、A現に最も広く通用している地域語を選択すれば、多くの地域が受け入れやすいだろう。そういう意味では、うちなあぐちの標準語は、決めやすい環境にあるといえないだろうか。

うちなあぐちにも標準語が必要と結論付けた場合、全地域にとって最も抵抗が少ないのは、那覇語とならざるをえないだろう。実際、那覇語系は、首里を除く本島中南部の殆どをカバーしている。かつて首里語が公用語といわれた時期もあったが、公用語と共通語とは別である。地方では、首里語は士族が落ちた屋取部落以外では殆どは話されず、むしろ、官憲ことばとして避けられていた。現実には互いに話し相手のことばに合わそうとし、結局、マチガタ(那覇語系)ムニイが広まった。マスコミで露出度の高い「はいさい」、「ゆいまある」、「ゆんたくひんたく」[35]なども、殆ど那覇語系である。廃藩置県で職を失った首里士族が始めた芝居ことばさえ、結果的に那覇語と混合している。庶民にとっては、那覇語こそが共通語だったことを物語る。それに、首里語と那覇語の大きな違いはなく、大局的には首里語[36]も那覇語系である。

それにしても、沖縄人の多くは、生まれジマのことばへの愛着心が強い。標準語の確立については、一筋縄ではいかないかもしれない。あるいは「標準語」を持たないということも選択肢の一つとしなければならないだろう。その場合には、民族語教育は、学校近隣の方言を地域の人に教えてもらうことになるのかもしれない。その場合でも、「マスター版教科書(標準語とは別)」とその「地域修正版」が必要になるだろう。「マスター版教科書」とは、複数の方言を一つの書記言語で書いた教科書のことをいう。うちなあぐちの場合、方言の違いの殆どは、抑揚の差である場合が多いので、「マスター版教科書」が作れる可能性が高い。それでも、一つのクラスで部落毎の方言(抑揚)を教授しなければならないという不具合は残る。

 

さいごに

琉球は、歴史を奪われ、言語を奪われ、土地を奪われ、伝統的な生活様式を破壊された。だが、琉球人は、魂と共に生き永らえている。伝統文化は受け継がれ、詩の国・歌の島・踊りの里と呼ばれている。これらの芸能文化の基層にあるのは、うちなあぐちである。

歴史は、後世のためにある。われわれは、奪い去られた歴史を後世に正しく伝える義務がある。

歴史認識と民族意識と言語認識は一本の線上にある。

「歴史認識を正しく」ということばがある。戦争や戦争犯罪を再び引き起こしてはならないという意味に使われることが多い。民族の言語を正しく継承しようとするという意味にも使える。

過去の歴史に光を当てれば、われわれは、取り戻すべきものを見ることができる。

琉球の歴史が再開する日もそう遠くはあるまい。

以上



【注釈一覧】

[1] 琉球語も組踊創作時代に書きことばが確立されていたが、廃藩置県以降は急速に衰退した。

[2] 「琉球語が(略)消滅する日もさう遠くはあるまい」「この瀕死の方言」等。(論考『方言と国語政策』)。

[3] 戦前迄の「標準語励行運動」は効を奏さず、戦後の「方言禁止運動」が危機を招いた。

[4] 初代県令鍋島直彬は、「言語風俗ヲシテ本州ト同一ナラシムルハ(略)」と、二代目県令上杉茂憲は、「其言語ヲシテ内地ト通同ナラシメ(略)」と述べた。『沖縄史料集成』(green life社)

[5] 大野晋によれば、弥生式文化と共に朝鮮南部の言語が持ち込まれた。『日本国家の起源』(井上光貞)

[6] 弥生時代後期に起こったとされる大規模な争乱。中国の複数の史書に記述があるという。

[7] 「アマミキヨ」は文語。浜比嘉島には「アマミチュー」(アマミ人)と口語で伝わる。ヤマト政権以来の古代水軍の海人部(あまべ)か。今帰仁、勝連、知念などに来琉伝説がある。

[8] 平家南走説が琉球弧全域にある。壇ノ浦海戦で敗れた平家側の水軍のうち、1300人余の残兵を乗せた70余艘が関門海峡を西から南走し奄美諸島から琉球北部に落ちたといわれる。彼らや彼らの子孫が琉球弧各地で築城に奔走したとしたなら奄美群島含む琉球にある130余の城が13〜14世紀に集中的に築かれた経緯と符合する。ウジ(氏、按司)という呼称は落ち武者の名残であろうか。参考文献『あゝ北山王国 南走平家の裔たち』(親川光繁)。

[9] 琉球語には、万葉語、南九州語、関西弁、江戸弁などが混在する。形容動詞に対応する琉球語の「やん」および形容詞などにおいてサ行がハ行に変化する与勝語は、関西弁の特徴に似る。

[10] 伊藤俊幸訳免疫グロブリンGの標識遺伝子に基づく日本民族の起源」松本秀雄著より。

[11] 様式化(確立)された書記言語を持ち得ない場合、@使用が限定される、A資料化しにくいので使い勝手が悪い、B優先度が書記言語を持つ他の言語に移る、C言語コンプレックスを産む等の理由から化石言語と化しやすいと思われる。

[12] うちなあぐちは戦後ヤクザの「共通語」だった。本土ヤクザとの交渉には通訳を必要とし、裁判でもうちなあぐちしか話せない幹部もいた。参考『沖縄誰にも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一著)。

[13] 戦前の標準語励行運動の主な理由:県民の皇民化を図る。劣等感の克服。県民が徴兵された場合や外国へ移民した場合、ことばに不自由させないため等。

[14] 復帰前、沖縄人は米兵の犯罪や事故に対して無権利状態だった。事犯の殆どがMPによって処理され、加害米兵は無罪または軽罰になった。この無権利状態が1970年のコザ騒乱へと繋がり、復帰を早めた。

[15] 三山割拠時代あり、統一後も内乱があった。明治期には親中派と新日派の対立があった。

[16] 反対勢力は日本復帰をすれば「芋と裸足の生活に戻る」と主張した(芋裸足論)。

[17] 「日本人は単一民族」と発言した政府要人は、中曽根総理大臣(1986年)、伊吹文科相(2007年)、中山国土交通相2008年)ら。

[18] 倭王武(日本国王雄略)が宋に送った上表文には征服した国として、「毛人五十五国」「西夷六十六国」の記述がある(『日本国家の起源』)。「国」は、今日的感覚では部族のことか。ミトコンドリアDNA分析でも、中国人や韓国人においては自国人固有タイプの占める割合がそれぞれ50.6%、40.6%なのに対し、日本本州人の場合は、一位は「中国に多いタイプ」で25.8%、2位が「韓国に多いタイプ」24.2%、3位が「集団に多いタイプ」21%、4位が「沖縄に多いタイプ」16.1%、5位が「アイヌの人々に多いタイプ」8.1%、「日本人固有のタイプ」は、僅か4.8%にすぎない。他のアジア人に比べ、極めて雑種である。NHKスペシャル「日本人のルールを探れ」より。

[19] 「中山世」や「中山世譜」は、薩摩に配慮して編纂されたもので、史実としては疑問視されている。

[20] NHK番組、「ニッポンの教養、人類よ声を聴け」より。

[21] 「あちゃ+あ」(「明日+は」)は、二語からなるが、「あちゃー」と表記すれば、前語の語尾と次語が結合してしまっているため、語構成を説明できない。

[22] 「おーい」は「おい」の臨時伸ばし音で非固有音。辞書には固有音の「おい」のみが載る。

[23] 口語ではヤ系係助詞は前語尾音によって使い分けられるが、文語では主に「や」を用いる。参考:拙書『実践うちなあぐち教本』。ちなみに、「わんや」の口語は「わんねえ」、「わのお」等。

[24] 散文の歴史の長い日本語文が古い表記を引きずっているのに対し、琉球語は、散文の歴史が浅いことから、引きずるべき古語が少ない。口語で文章をかくことを「言文一致」というなら、琉球語においては、日本古語を借用している部分を度外視すれば、組踊時代から「言文一致」である。

[25] 沖縄のことわざ。優れた才能や技量を持ちながら、普段、人前ではその気配を見せない者。

[26] 言論統制を強めていく軍国日本の中で、宮武外骨は、日本にも多種多様な思想があったことを後世に残すため全国を行脚して、古新聞を収集した。現在も東京大学付属施設に保管されている。また、現日本国憲法の草案には日本人政治家や憲法学者も多く関与した。

[27] 読谷村、西原町、宮古島市、西表(竹富町)、南風原町など。

[28] 北谷ことば、今帰仁ことば、宮古ことば、石川ことば、新垣(糸満市)ことばなど。

[29] 「よなぐすくの民話」など。大半は旧与那城町ことばで収録されている。

[30] 文明国語中で音素が一番少ない日本語だけが機械的操作に適しているといわれる。参考『日本語の本質』(司馬遼太郎対話選集2)

[31] 直音は1文字、拗音は普通文字と小文字の2文字。

[32] 例:実音「テレベー、ンダン」を「テレビえ、見だん」と書記。「テレビ」の語形を崩さない表記。

[33] 文中の強調助詞「どぅ」、「る」を受け、述語となる用言を連体形で結ぶ。例、「くりどぅちゅらさる」

[34] たとえば、「先生」、「天気」は、琉球漢音では、それぞれ「シンシイ」、「ティンチ」である。

[35] 「はいさい」は首里語になく、「ゆいまある」、「なんくるないさ」、「ゆんたくひんたく」は首里語ではそれぞれ、「いいまある」、「なんくるなゆさ」、「ゆんたくふぃんたく」。

[36] 那覇語系の「飲むん」、「すん」は首里語では、「飲ぬん」、「しゅん」となるのが両語の特徴的な違いである。また、首里語のf音は那覇語系では主にh音に変わるがf音を残すところも多い。那覇語の一部には、他にも首里語の影響と見られる音遣いがある。「あやあ」、「たありい」等の士族語彙は度外視。