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 うちなあぐち語彙論   004年9月24日訂正 吉屋松金
うちなあぐち
日本語

■はじみに

祖先(うやふじ)から()()ゃる言葉、成いる(かじ)大切(てえしち)にさあい、使(ちか)かてぃ(ぬく)ちいかなんでぃ(うむ)とおやびいん。やしが、また、いがろうがうちなあぐち、胆心からじゅんに、(ぬく)するくとぅ(ぬず)むる(むん)どぅんやれえ、生ち言語ぬ語彙や、ちゃあ(うわ)しいし(外来語・漢語使ゆしんでえ)、変わてぃいちゅるむぬやるくとぅ、やすんじらんでえないびらん。

 

うぬくとお、今あぬメジャーな言語んじえ当たい(めえ)なかい、さってぃ来ゃるくとぅどぅやいびいる。日本語お、なあ、和語びけんなかいや成い立たな、漢語(たる)がきらんでえ、成らんなとおる言語とぅけえ成とおいびいん。日本語とぅ同腹ぬ韓国語=朝鮮語ん、あんやいびいん。中国語ぬんちょおん、和製漢語使とおやびいん。ゲルマン語系やいがなあ、英語ぬ語彙ぬ(たあ)ちに(てぃい)ちびけんやフランス語彙成とおいびいん。他ぬ(なま)に生ち延びとおる言語お、大概(てえげえ)や、うっちかっちどぅやいびいる。外来語ぬ輸入や、生ち延びてぃいかなんでぃすぬ言語ぬ本能ぬぐとおるむんどぅやいびいる。

 

■うちなあぐちん、きっさ持っちょおたる自然な適応力(語彙拡大力=変化力)

外来語(漢語・大和語)ゆ取い入りゆるくとお、「おもろさうし」「組踊」「琉歌」、また「民謡」んじえ、さっき、さっとおたるくとぅ(かわてぃ、「組踊」え大和風儀なてぃ、やまとぅうちなあぐちぬ江戸時代版んでぃ言ちん済むるむん)どぅやいびいる。うりから、明治十三年んじ、琉球人生徒(しいとぅ)んかい「標準語」習あするたみなかい沖縄県学務課が発行さる『沖縄對話』んかいん、いちゃっさきいぬ漢語(国立国語研究所『沖縄語辞典』んかいん載てえ居らん)ぬ使あらっとおせえ、漢語使ゆるくとぅが、理屈事お、あらな、自然(無意識)なくとぅやがんでぃ言るくとぅ表わちょおいびいん。昔ぬうちなあぐち文(韻文、戯曲、教科本他)んかいあぬうちなあぐち、検証しいねえ、うちなあぐちん(ふか)ぬ大ぎ言語とぅ同ぬむん、きっさ生ち延びゆるたみぬ適応力(語彙拡大力=変化力)、持っちどぅ居いびいたる。

 

■漢語んでえぬ外来語使用否定や言語ぬ適応力否定=生ち延びるくとぅぬ否定

漢語、いちゃっさきいなあ使(ちか)とおるラジオ沖縄ぬ「方言ニュース」にちいてぃん、うちなあぐちあびゆうする兄方(しいざかた)んちゃあから、「あれえ、方言ニュースんでぃ言しが、()があんし、大和語(やまとぅぐち)(多くお漢語ぬくとぅどぅ言ちょおいびいる)、うさきいなあ、混んきてぃ、じゅんねえあらんさあ」んでえぬくじい物言い、良う聞ちゃびいしが、(じち)え、あんそおるくとお、自然な言語活動どぅやいびいる。「おもろさうし」んでえ、「組踊」んでえぬ(んかし)ぬ作家が漢語んでえ大和語んでえ使ゆしえ、()があらさりいしが、(なま)(ちゅ)が漢語使ゆしえ、逃があらさんでぃ言る理屈(でぃくち)でえ(とぅう)やびらん。言葉ぬ輸入や生ち言葉ぬ証明どぅやいびいる。言葉ぬ生ちちょおる(かじ)り、言葉ぬ輸入んかい終わいや無えやびらん。むしか、言葉ぬ輸入ぬ終とおるむんどぅんやれえ、うぬ言語お死語どぅやいびいる。あんあらんでえ、死語とぅし、(あちけ)()しゃるあるはじ。自然(しじん)な語彙拡大力否定するくとお、うちなあぐちぬ生ち(ぬく)てぃいちゅるくとぅ否定すぬむんやいびいん。彼等(うったあ)んかいとぅてぃ、うちなあぐちぬ語彙ぬ(うわ)(ふぃる)がてぃいちゅるくとお、「うちなあぐちあらんなゆるくとぅ」意味さあい、「純粋」やるうちなあぐち(まむ)てぃ見しとおるぐとおしが、じちえ、うちなあぐち、生活から(ふぃ)ち離ち、(いいち)までぃいしみゆるくとぅんかい成いんでえ()()ちぇえ()らんどぅあいびいる。

 

■言いわきし、どぅうやしく日本語んかい乗い換えとおし・正当化

あんしまた、彼等(うったあ)「うちなあぐち活動」んでぃ言いねえ、他ぬうちなあぐち活動、くじゆるぐれえなむんどぅやいびいる。あり「漢語混んちゃあやくとぅうちなあぐちえあらん」「言い様ぬ大和風儀やん」「大和言葉やん」。うったあぬ口びけんぬ行為や歴史的(長えさる歴史から客観的に眺みいねえ)ねえ、(あとぅ)ぬうずみ、うちなあぐち活動さんたみぬ言いわきどぅやいびいる。(なま)に生ち(ぬく)とおる言語あ、うぬ民族ぬ、うみはまてぃ、足らあん(とぅくる)(のお)ち、語彙(うじ)なてぃ、あいゆかん、(とぅ)っかかいむっかかいし()ゃあに、(どぅう)なあたあ言語、ふぇえち来ゃるむんどぅやる、(ちむ)(すく)からアイデンティティー意識ぬある民族お、かまらさくとぅんでぃ言ち、いちゃんだん(ふか)ぬ言語んかい()()えたいさんむぬやいびいん。

 

■うちなあぐちぬ「消滅傍観者」とぅ「消滅必然論」

昭和十五年、伊波普猷や論考『方言と国語政策』ぬ中んじ、「この調子でいくと琉球語がその使命を全うして消滅する時期も、さう遠くはあるまい」「標準語の奨励をあせって、この瀕死の方言の使用を禁止するが如きは、思わざるの甚だしきもの(略)」んでぃ言みそおちょおいびいん。「死ぬし傍観」そおたる伊波や、だんじゅ「標準語励行」いましみとおんねえそおしが、「うちなあぐちえ、やがてぃ死ぬくとぅ、あしがちさんよおい、待っちょおけえ」んでぃん()かりやびいん。(うり)え、「沖縄学ぬ父」んでぃさっとおいびいしが、また「沖縄語消滅論ぬ父」んやいびいん。彼が(あとぅ)、多くぬ傍観者たあなかいぬ「沖縄語消滅論」が、(なま)ぬ沖縄ぬ文化・教育界、かげえとおるばすやいびいん。うちなあぐちが自然に生ちいちゅる適応力()っちょおいびいたしがる。

 

「うちなあぐち、あびゆうする御年寄(うとぅすい)いちゃあぬ、いきらくけえなてぃ」んでぃ、大息(うふいいち)すぬ、「心配症(しわさあ)」ん()いびいしが、本当や、三十代前半やてぃん、そううちなあぐちあびゆうする(ちゅ)ん居い、二十代やてぃん、大概(てえげえ)や、あびゆうすんねえし成とおる二才(にいせえ)たあん居いびいん。二〇〇一年冬、島尻ぬ某中学校んじうちなあぐちしあびやああびやあそおたる生徒同士んかい、はっちゃかたるくとぅぬあいびいん。話しうちなあぐちんでえ書ちうちなあぐちんでえが、今、(しじ)かに(うく)りとおやびいん。いちゃっさ、くじやあくじやあさんてえまん、なあ、うぬ流りえ、(とぅ)まらんどぅあいびいる。

■はじめに

祖先から受け継いだ言葉を可能な限り大事にし、使い残していきたいと思います。しかし、同時に我々がうちなあぐちを心から本当に残すことを欲するのであれば、生きた言語の語彙は増え続け(外来語・漢語の使用含む)、変遷するものであることを受け入れなければなりません。 

そのことは、今日のメジャーな言語では当り前に行われてきたことでした。日本語はもはや、和語だけでは成立せず、漢語に頼らざるを得ない言語と化しています。日本語と同系の韓国語=朝鮮語もそうです。中国語でさえ、和製漢語を使用しています。ゲルマン語系でありながら、英語は語彙の五割近くをフランス語彙に依存しています。他の現代に生き延びている言語は多かれ少なかれ似たようなものです。外来語の輸入は生き延びようとする言語にとって本能のようなものなのです。

■うちなあぐちも既に自然に身に付けていた適応力(語彙拡大力=変化力)

外来語(漢語・大和語)の取り込みは、「おもろさうし」「組踊」「琉歌」及び「民謡」においてはすでになされてきたこと(取り分け、「組踊」における大和風は、やまとうちなあぐちの江戸時代版ともいうべきもの)です。さらに、明治十三年に琉球人生徒に「標準語」を教えるために沖縄県学務課が発行した『沖縄對話』にも、じつに多くの漢語(国立国語研究所『沖縄語辞典』にも掲載されてない)が使われていることは、漢語使用が理屈事ではなく、自然(無意識)な言語活動であることを示しています。過去のうちなあぐち文(韻文、戯曲、教科本他)にあるうちなあぐちを検証すれば、うちなあぐちも他のメジャーな言語と同じく、既に生き延びるための適応力(語彙拡大力=変化力)を身につけていたのです。

■漢語等の外来語使用の否定は言語の適応力の否定=生き延びることの否定

ラジオ沖縄の「方言ニュース」について、うちなあぐちを話せる先輩からの、「あれは、方言ニュースと言いながら、どうして、大和語(多くは漢語のことを指しているのですが)を多く混ぜているのか、本物ではない」などという批判を良く耳にします。「おもろさうし」や「組踊」などの昔の作家達が漢語や大和語彙を使うのは許されるが、現代の人々が使うのは許されないという理屈は通用しません。言葉の輸入が行われるのは、その言語が生きている証です。言葉が生きている限り、語彙の輸入に終わりはありません。もし、語彙の輸入が終わっているとするなら、その言語は死語なのです。でなければ、自ら死語扱いをしているのでしょうか。自然な語彙拡大力を否定することは、うちなあぐちが生き残っていくことを否定するものです。彼らにとって、うちなあぐちの語彙が拡大し変化していくことは「うちなあぐちでなくなる」ことを意味し、「純粋」なうちなあぐちを守ってみせているようで、じつは、うちなあぐちを生活から隔離し、窒息させるような行為であることに気付いていないのです。

■言い逃れで安易な日本語への乗り換えを正当化

そして、彼らの「うちなあぐち活動」といえば、他のうちなあぐち活動にケチをつけるぐらいなものです。やれ「漢語が混じっているからうちなあぐちではない」「言い回しが大和風だ」「大和言葉だ」。それらの口先行為は歴史的(長い歴史から客観的に見た場合)には、結局、うちなあぐち活動をしないための言い逃れに過ぎません。現代に生き残っている言語はその民族の努力で、欠点を正し、語彙を補い、それこそ悪戦苦闘の結果、自らの言語を鍛え上げてきたのであって、心底アイデンティティー意識のある民族は、面倒くさいからと言って、安易に他の言語(日本語)に乗り換えたりしないものです。

うちなあぐちの「消滅傍観者」と「消滅必然論」

昭和十五年、伊波普猷は論考『方言と国語政策』のなかで、「この調子でいくと琉球語がその使命を全うして消滅する時期も、さう遠くはあるまい」「標準語の奨励をあせって、この瀕死の方言の使用を禁止するが如きは、思わざるの甚だしきもの(略)」と述べています。「死の傍観者」を貫いた伊波は、如何にも「標準語励行」を戒めているようですが、「うちなあぐちはどうせ死ぬからあせらず待て」とも聞こえます。彼は、「沖縄学の父」とされていますが、同時に「沖縄語消滅論の父」でもあります。彼以降、多くの傍観者達による「沖縄語消滅論」が今日の沖縄の文化・教育界を席巻しているのです。うちなあぐちが自然に生きる適応力を身につけていたにもかかわらずです。

「うちなあぐちを喋れるお年寄りがすくなくなった」とため息をつく、「心配症」もいますが、現実には、三十代前半でも完璧なうちなあぐちを喋れる人もいるし、二十代でも、大体喋れるようになった若者がいます。二〇〇一年冬、南部の某中学校で生徒同士がうちなあぐちで喋っているのに遭遇したことがあります。話すうちなあぐちや書きうちなあぐちが、今静かに興っています。多少の難癖を付けただけでは、もはやその動きは止められないのです。


追記 2004年9月22日
  
先日、韓国人のB氏からメールにて次のようなご指摘等がありました。ご指摘どおりだと思うので,ご本人の了解を得てここに紹介します。
 
「漢字表記部分を見ればよくフリガナがついて(略)日本語の発音とは相当違うところがたくさん目につきますが、漢字の古代中国漢字音、現代中国漢字音、韓国漢字音、ヴェトナム漢字音、日本漢字音がそれぞれ違うようにうちなあぐちにも琉球漢字音と呼ぶべき漢字音の対応があるのですか。(略)表現力の範囲を高めるため新しい漢字語を日本語から受け取る時は従来の琉球漢字音と現代日本語漢字音の中ではどちらが先でしょうか」

 「琉球漢音については古来の漢語はともかく現代日本語の漢語の中で含まれている多数の明治以来のヨーロッパからの翻訳漢語と新しく作られる漢語系の新造語はその頃からの方言抹殺と共に琉球式に受け取れずに日本語発音そのまま浸透したのではなかったのかと思いました。「琉球式に読まれるべき」ならば安心ですね。外国語からの借用語が借用する側の言語に合う音韻の変化なしにそのまま入ってくるのは言語消滅の第一歩だと思っています」

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『沖縄対語』(明治ぬ沖縄語)んかい有る漢語見ちんじゅん
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